精神の絵画法の開発
精神の絵画法の前に少し音楽教育について語りたいと思う、皆さんはスキーマという言葉を知っているだろうか?スキーマとは知識の構造を意味するものであるが、音楽自体にも時代、民俗、宗教、様式、ジェネレーション、個人により様々なスキーマがあり、それらは混沌としたものがある。日本の明治以降の音楽取調掛が中心になって進めた音楽教育は西洋的スキーマの押し付けであったと言ってよい、自国の音楽の素晴らしいスキーマが西洋的スキーマと矛盾するとの理由から切り捨てられたのである。これは多かれ少なかれ世界規模で起こった現象であるといってよい、戦前は西洋スキーマの侵食であり戦後はアメリカ的スキーマによる侵食である。そのあまりに歪んだ形で取り入れられた西洋的スキーマは西洋古典音楽信仰者により、その西洋的スキーマに合わないものはとことんまで切り捨てられた。民俗音楽学者(音楽評論家の中村とうよう氏による民族ではなく→民俗にするべきとの説に従う事にする)の小島美子氏はわらべ歌の中にこそ日本人の音楽のスキーマの最古層があり子供達は遊びの中でそういった日本人にとってもっとも自然な音感覚を身に付けてい
くが、小学校にあがると西洋的スキーマと矛盾するその音感覚を教師達から否定され自然な音感覚が封印される結果になってしまったという。
近年音楽教育も見直しが進み小泉文夫氏がいうバイミュジカル(二つ以上の音楽スキーマをあやつれる能力)や日本音楽への見直しも始まり近年ようやく学校教育にもとりあげられたが今もって現実的には西洋的スキーマの支配が続いているといってよいだろう。思えば小泉文夫氏も小島美子氏もクルトザックスもアランロマックスも西洋的スキーマ絶対崇拝を否定しつつもそれ以外の音楽を分析する時に結局は西洋的スキーマをものさしにして図っていたというアンビバレンスな仕事をしていたように私は思う。(だが西洋的スキーマを悪論のように書いたが実際には西洋的スキーマ程体系化された知識の構造はインド音楽とペルシャ音楽、トルコ音楽くらいであり、その伝統も音楽も素晴らしいものだ。だからこそ私も西洋のベルカント歌唱法を学んできたわけだ、残念なのはその取り入れ方があまりに歪んだ形でとりいれられた事だ。ハンガリーのコダーイシステムのように自国の音楽からスタートし自然な接点の中で西洋音楽を学んだのであれば日本の西洋音楽も遥かに素晴らしいものになっていたと思うのである。)
 教育もゆとり教育が叫ばれ個性重視やら創造力を高めるなどと言っているが殆んどのゆとり教育現場は無法地帯と化し教育も何もあったものじゃない!教育論も様々なものがあり様々なロジックが存在しているが理論と実践はかなり違うという事だ。医術と医学で例をとるなら医学は発達したが現場の医術が進歩していないようだ。このような例からも理論と実践は明らかに一致しない場合が多い事がわかると思う。特に教育の場合はそうだ。またある一つの絶対的なロジックはそれと矛盾するロジックを痛々しいほど傷つける事も付け加えておくべきだろう。教育論を実践で活かすのは難しい!だがだからといって実践だけでなんとかなるものでもない教育者たるもの常に様々な理論に目を向けておくべきである。そういって学んだ様々な知識の構造を現場の中で柔軟に実践出来てこそ理論は空論にならず生きた理論になりえるのだと私は思う。と語った私も空論にならないよう現場の教育者として精進していく次第である。
 話はややそれたが、生理的可能性の解放という意味で世界で最も優れた発声体系を生み出したものの一つとして十七〜十八世紀のイタリアベルカント時代があるわけだが(他にイランのタハリール唱法、南インドのカルナティック唱法、北インドのドゥルパド唱法、スーフィーのカッワリーのサルガム唱法、チベット聲明、トルコの古典声楽、平安末期の後河法皇による梁塵秘抄の発声体系等人間の生理の可能性を極限まで引き出した歌唱体系、発声体系は世界に数多くあり、これら全てがイタリアベルカントにひけをとるものでない、特にトルコの古典声楽やイランのタハリール唱法等は技巧的側面でみるならばベルカントの全盛の歌唱技巧をも上回るものである。)この時代の音声開発メソードに精神の絵画法というものがある、簡単にいえば脳裏に鮮明な音質を描く事を意味しており、その音質の描き方は個人のスキーマ(知識構造)や音声美学に由来するとする考え方だ。そのため良い演奏や良い歌唱を聴く事こそがより良い精神の絵画を確立する訓練法という事になる。またその他の芸術や芸能、哲学や宗教的知恵を得る事も精神の絵画により良い影響を与
えるものと私は思うのである。今はベルカント時代ではないわけで、生徒さんの中にもベルカント的音声を求めるものばかりではないだろう、そのため良い歌唱の基準も当時の精神の絵画法よりももっと広い視野で見るべきであると私は思う、この章の冒頭でも書いたように世界には様々な音楽のスキーマが存在している。スキーマとは知識の構造であり、価値基準のものさしのようなものだと思うとわかりやすい、今や一つのものさしで全てを図ろうとすることは侵略的な考えであり、あまり好ましくないと私は思うのである。様々なスキーマを理解し文化的理解を示していく事が必要だと私は思うのである。また実際に世界の様々なスキーマや美学が混血をおこして生まれたのが十九世紀後半から誕生したポピュラー音楽であり、誕生から百年を越えた今、それらのルーツも次々に明らかになってきており、先祖帰り的な側面を持つ作品もポピュラー、古典のニューウェーブと限らず次々に生まれてきているというのが現状である。また異文化音楽によるコラボレーションやフュージョンも積極的に行われている。これから活躍していく音声表現者、音楽家はこういった事に関する理解や
知恵がなければ厳しいのでは?と私は思っている。
精神の絵画法を柔軟にするという事は音色や音質に対する柔軟さが生まれる事を意味している。人の声は内外喉頭筋にある約60個の筋肉の微妙な働きにより様々な音色を生み出すものである。外喉頭筋の章でも書いたがそれらのポイントに偏りがあると遅かれ早かれ内外喉頭筋のバランスが崩壊し、発声のバランスも崩れてしまうのである。そのためにも精神の絵画法を柔軟に保つ事は重要なポイントであるといえるであろう。精神の絵画法を柔軟にする事とは生理的な自在性を得るだけでなく表現者としての自在性を得る事の基礎となるのだ、何事もインポスターレ(ベルカント時代にあったとされる『基礎を築く』という概念だが、その解釈には研究者により様々な捉え方がある。ここでは『基礎を築く』という意味で使わせて頂く)は重要である。 皆さんも世界にある様々な音声表現、音楽表現は元より芸能、芸術、哲学や宗教的知恵に触れ、自在な想像性と創造性を引き出していって欲しい。別の章で私なりにどのような音声表現、音楽表現、芸術や芸能に触れると良いのかを書いたのでそちらも参考にして頂きたい。素晴らしい想像性と創造性を得てくれる事
を願う次第である。