聴く力の回復について
20世紀最高のテナーと言われるエンリコ・カルーソーは歌が上手くなる秘訣をインタビューされるとこう答えたという「それは皆さんの声をよく聴く事です。」と、聴く事が声を育てる上で重要とされたのはイタリアベルカントの黄金時代もそうだったようである。彼らは自身の声を聴くために山びこを利用していたという。また古代インドの聖典ベータも聴く事を重要としていたようだ、ベータとは文字通り耳を意味するし日本の禅でも『片手の音声』のように聴く事に重きをおいたものが確認される。皆さんもご存知の通り、世界のシャーマニズムや宗教儀礼で声や音は極めて重要な位置を担ってきた。それは私が推測するには人々が神と呼んだ根本原理が古代インド人が言うように『声』であったからであると本能的に感じていたからであると思う。事実量子力学の最新の仮説であるスーパーストリングス理論によれば世界を創造する根本原理とはスーパーストリングスの振動であり、すなわちそれを科学者達はスーパーストリングスの声と呼んでいる。おそらくそれゆえにスピリチュアルな世界では声を重視しまた聴く事を重視したのであると私は思う。

また聴覚セラピストのトマティス博士によれば耳と脳は密接な関わりを持つ事を仮説として発表している。芸術や精神活動は極めて脳力の全体性を取り扱うものである。それゆえスピリチュアルな世界や芸術の基本とされる歌が聴く事を重視するのは極めて自然な行為であるように思うのである。声を育てるためにまず耳を鍛えてみる事をお薦めする。聴く力を育てる方法は様々なメソードがあるがコダーイシステムの考え方は特に素晴らしいと思う。その考え方の基礎には『開けた耳』という考え方がある。開けた耳とは古今東西の様々なジャンルの音の美学に対して開けているという事を意味している。コダーイシステムではその開けた耳を創造するために自国のわらべ歌から始める音楽教育を薦めているが多くの人はわらべ歌、唱歌、童謡の区別がつかないらしいのでその違いを簡単に述べておく唱歌は明治初期に音楽取調掛(文部省)が欧米の音楽をまねて作った、学校教育用の歌であり殆んど西洋音階で出来ている。(例、鳩ぽっぽ、でんでん虫、茶摘み、うさぎとかめ、桃太郎等)    童謡は唱歌に対抗して大正期に創作された歌で創作童謡ともいう、(からたちの花、ゆりかごの歌、この道、汽車ぽっぽ等)            

わらべ歌は子供達の間で伝承されてきたいわば子供版民謡とでも言うべき存在である。(この子どこの子、はないちもんめ、かとうきよまさ、おちゃらか、等で更に応答歌等はそのわらべ歌の基礎にあたるものだと思う。)わらべ歌の多くは声域もせまく子供の発育過程にもあわせた構造になっており子供の内外喉頭筋を無理なく発達させていく上でも非常によいものだと思う。私は500人を超える子役俳優の発声指導やアニー等のミュージカルの歌唱指導を行っているがその指導にわらべ歌を取り入れておりそれなりに良い効果を生んでいるように思う。そのわらべ歌の指導で面白いのが親と子供が合同で行う合同レッスンの時に私はわらべ歌によるアドリブ対話を親子にさせるのだが子供はほぼ100%の確率でわらべ歌音階いわゆる律音階による歌唱なのだが親の歌唱には西洋的音階がよく混じって歌われる事が多い、これはほぼ音楽的素人のアドリブなわけだからほぼ無意識(正確には前意識)に行われているわけである。日本人の中にはとうとう100年に渡る西洋的音楽性が根付いてきたのであろうか?しかし小島美子さんやそのお弟子さん達の研究によれば民族レベルによる音楽性の変化は千年単位で行われるのが普通であり100年そこらで変わらないとするのが定説のようである。

それが証拠に日本人はいまだにモノフォニー民族のわけである(一部の西洋音楽教育が著しい環境においては日本人もポリフォニー民族化してきているようである。例えばそういった環境化におかれた子供はスピカーから流れる童謡や唱歌に対してユニゾンで歌おうとせず、ハモリ出すのである。こういった例は私もいくつか耳にしているが親が西洋音楽家や西洋音楽教育者であったりする特殊な環境のみであり、普通の大衆の間ではまだまだそういった状況になりえていないのが現状である。)1つ勘違いしてはいけない事は西洋的な音階感覚やポリフォニックな感覚を得る事が必ずしも音楽的な発展ではないという事である。世界レベルで見た時にポリフォニックな音楽文化がモノフォニックな音楽文化に勝っているという事はないのである。むしろ元々の民族レベルで伝承されてきた自然な音程感覚や音声感覚が他民族の文化を強引に導入した事により崩れてしまう事の方が多い。

今子供達をみていて思う事は歌が失われつつあるという事である。子供達から明らかに歌が減ってきている事を感じられずにはいられないのである。その理由は私は3つあるように思う。1つは学校の音楽教育が西洋的音楽価値に傾きすぎ子供達が自然に身に付ける日本人的音感覚を真っ向から否定されてしまうという事。2つめは親がその西洋的音楽価値に無意識(正確には前意識)のうちに毒されているためその価値にあわない自分の子供の歌に音痴というレッテルをはってしまう事歌わない子供とよくよく話をしてみると親に音痴と言われたとか下手クソだと言われたという子が多い事に驚く!!これ以上歌わない子供、歌えない子供を作らないでもらいたい!!私からの心よりの願いである。3つめは近頃の子供向けの歌が必ずしも子供の声の発育や子供の声の事を考えて作られていない所にあるように思う、そのため調子っぱずれとなり周りの大人(親)から音痴とレッテルをはられてしまうのである。親達も悪気はないのかもしれない、自分の子供の自然にだしやすい声域など専門家でもない限り調べないのが普通であるし、世間の風潮にあおられて軽い気持ちで言っているのかもしれない、しかし無知であるがための言葉がいかに多くの人の人生を歪めてしまうかをもう一度よく考えて頂きたい言葉は人を生かす事も殺す事も出来るものである。その言葉を出来る限り人を生かすものにしていくのはその人の知恵と経験にかかっていると思うのである。自分の子供の未来のために声や歌についてもう少し知性があればこのような言動は防げるのである。

 コダーイシステムはこうしたある種の悲劇を避けるためにも役立つシステムであると思う。子供達の中に潜在的に宿る音感や発声器官を無理なく引き出しだんだんと自国の民謡やその他の国の民謡や芸術音楽へと進んでいくのは音楽性や発声能力の側面からみても理想的である。ハンガリーでこのようなシステムにより育てられた子供達は日本でいう小学生高学年にあたる子達が日本の音大生が難しい顔をしながらやっと演奏するようなバルトークの曲を楽々とこなせているそうである。これに驚いた日本からの研究生がその子達に「将来は何になるの?」と尋ねたところ皆、「歯医者!」とか「コック!」とか答えたそうな。てっきり皆、演奏家になるものと思いこんでいた日本人は「演奏家にはならないの?」と聴くと子供達は「えー私そんな才能ありません!」と口を揃えて言ったという。それを聴いた日本人は冷や汗ものだったそうだ。ハンガリーのコダーイシステムでは自国のわらべ歌から始まり自国の民謡、他国(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)の民謡、ヨーロッパの芸術音楽へと進んでゆく、また宗教儀礼やシャーマニズムも儀礼を通してその唱法を学んだりグレゴリオ聖歌〜中世ルネッサンス〜バロック〜古典〜ロマン派とヨーロッパ音楽史の全歌唱パターン演奏パターンを実践で学んでゆくのだそうだ。そしてコダーイシステムの何より重要なポイントはわらべ歌から芸術音楽までの関連性をもたせているという事にある。

現代の日本の音楽教育では音楽ジャンルがそれぞれ別のもののように扱われているが歴史的にみればそれらは文化的な衝突や混血により繋がりをもちながら誕生したわけであり歌や音楽への本質へと常に思いを抱くのであればそれらの繋がりは見えて当然なのである。コダーイシステムではそれらを重視し更には演奏スタイル歌唱スタイルのチェンジすらも容易に行えているというのだから素晴しい事である(皆さんはTV等でオペラ歌手がポップスを歌ったり演歌歌手がオペラを歌ったりするのを見た事があると思うが、その殆んどが自分の畑の耕し方で歌っているのが分かると思う。オペラ歌手は何を歌っても西洋クラシカルな感じで演歌歌手も何を歌っても演歌的に聴こえてしまう、ポップス和製リズム&ブルースの歌い手等も殆んどの場合結果は同じである。これは自分のジャンルのスタイルで他のジャンルを歌う時に生じたものであり、いちがいに良いとも悪いともいえないものである。良い面というのはそのジャンルの芸が板についてる事を意味し悪い意味では柔軟性の不足や喉頭筋の使い方に偏りがある可能性が伺える事である。

我が国の歌い手で最も柔軟自在の代表各は美空ひばりさんとその師でもある川田晴久さんであろう。美空ひばりさんはジャズ、演歌、浪花節、端唄とそのジャンルスタイルに合わせた歌唱法や発声法を行える自在さがあった川田晴久さんは浅草オペラ、浪花節、声帯模写、ジャズ、ヨーデル、カントリーとそのスタイルのチェンジが自在だった。美空ひばりさんの器用さも川田晴久から譲り受けたものかもしれない、美空ひばりさんも晩年オペラアリアを歌っているがこちらはオペラ的スタイルというよりひばりスタイルで歌ったものだった。トスカの「恋に生き歌に生き」であるのだが、TVや評論家は絶賛しているが、私はあまり良いと思わなかったのが正直な印象である。私は西洋クラッシックはその様式で歌うべきなどという、日本の音大に蔓延っている堅苦しい考え方はしていない。

事実アレサフランクリンがソウルスタイルで歌ったトゥーランドットのアリア「誰も寝てはならぬ」は素晴らしかったしミルバが歌ったアリアも素晴らしかった。私は個人的に美空ひばりさんのファンであるのだがこのアリアのひばりはやはり良くなかった。何が良くなかったのかは良くわからない・・・しいて言えばひばりちゃんは声区を分裂させる癖があってそれがオペラアリアに適していない事は確かである。それとひばりちゃんは言葉を大事にする歌い手であるがオペラアリアでは言葉を大事にしすぎるとレガートが損なわれてしまう。頭声になった時に極端に肩を上げるのが苦しそうに見えて気になった・・等々、様々な理由が思いつくのだがどれも決定的ではない声区を分裂させるのはアレサもミルバも同様だしアレサもミルバもクラシカルなレガート感はない。にも関わらず、ひばりちゃんのこの時の歌唱はよくなかった。近年マスメディアはひばりちゃんを神格化しすぎているように思う。ひばりちゃんは確かに天才である。それはデビュー当時の歌を聴けばよくわかる。特に「上海」や「A列車で行こう」等のスタンダードナンバーにその天才ぶりが発揮されている。これは私が知る限りの世界の歴代少女歌手の中でもナンバーワンの実力ではないかと思っている。しかしそんなひばりちゃんにも失敗作はあるのである。どんな天才にだってそうである。そのネームバリューだけでありがたがり、なんでも良しとしてしまうのはあまり良い傾向とは言えないと思う。

そしてその傾向が結果ひばりちゃんの真の凄さを曇らせる事に繋がっているように思うのである。ひばりちゃんは商業主義と大衆によって歪められ殺されていったような気がしてならない、音楽評論家の中村とうよう氏はひばりちゃんは世界的な大歌手になる筈だったと言う・・・私も同感である。昭和の始めにあれほどのスイング感と自在な音声感覚をもった少女は私の知る限り、世界のどこにも居なかった!ひばりちゃんは今、日本において最大の歌い手と崇められ、演歌のみならず、邦楽、ジャズ、クラッシック、ポップス、リズム&ブルース、と様々なジャンルの歌い手達から尊敬されているしTVでは毎年のように特集が組まれその人気は少しも衰えをみせない。しかしこれほどの人気と名声さえもひばりちゃんの本来の潜在能力から考えるのならば、彼女は栄光なき天才だったのではと思えてしかたないのである。

ひばりちゃんの話が長くなってしまい、コダーイシステムから大分話がそれてしまったが、実はそうでもない、ひばりちゃんが他のどの歌い手よりも優れていた基礎はその『開けた耳』にあったと思うからである。オペラ、リート、ジャズ、カントリー、ロカビリー、シャンソン、カンツォーネ、クロンチョン、タンゴ、サンバ、ハワイアン、アリラン、フォルクローレ、民謡、端歌、浪花節まで  聴いたというのだから正に開けた耳を持っていたわけである。この開けた耳がジャンルスタイルのチェンジをスムーズに行うための基礎になるのである。開けた耳が養われたら、それを内外喉頭筋に伝える訓練を積めば比較的自由度の高い歌い手になれると思う。

今日本の音楽教育の現場ではこのジャンルスタイルのチェンジが一つの問題になっている。それは音楽教育法の指導要領が変わったため日本の伝統的な古典声楽を教えなければならなくなったのである。日本はご存知の通り音楽取調係によって西洋音楽中心の音楽教育が行われてきた。ついこの間まで日本の伝統的な音楽は無視されてきたといっても決して大袈裟ではないと思う。しかし民族音楽学者の小泉文夫氏等により自国の音楽を学校教育に取り入れるべきとの主張が1970年代辺りより言われ続けてきた、それから考えると大分遅い実現ではあるが2004年度より学校教育にもとうとう日本音楽が取り入れられるようになったのである。そのため授業の中で長唄や日本民謡等を歌ったと思ったら西洋クラッシックも歌ったりするようになるのであるが、この歌唱スタイルの切り替えが極めて難しいのである。

私の所属している日本声楽発声学会では2003年に世界中の学校の音楽教師を招いてディスカションを行ったが民謡と芸術音楽を歌うさいの歌唱スタイルのチェンジは難しいとの意見が数多く上った。民謡といってもヨーロッパの方は芸術音楽と民謡がほぼ同じ土壌のうえに成立しているためそれほどの変化はない(もちろん難しいのであるが)しかし日本の場合は民謡と西洋のクラッシック音楽とでは育った土壌がまったく違うのであるからそのスタイルのチェンジは極めて骨のおれる作業だという事はいうまでもない。これを見事にやってのけているのが日本歌曲の歌い手の青山恵子さんやあきれたぼういずの川田晴久さんであるわけである。後最近芸大のアメリカ人留学生が西洋クラッシックと日本民謡のスタイルチェンジが見事であったらしいとの情報を聴いた事がある。出来ている人がいるわけであるし、私が教えるプレイシングザボイスのテクニックを使用すればある程度は可能である。とはいうもののこれを授業の中で生徒に教えるほど難しい事は間違いないのである。日本もついにかつて小泉文夫氏が語っていたバイムジカル(2つ以上の音楽文化をもつ者)を生み出せる土壌が出来たのかと思うと私は嬉しく思う。しかし現状はまだまだ西洋クラッシック音楽重視の傾向が強く日本音楽は付け足し程度の感じがしてならない。西洋のクラッシック音楽は確かに素晴らしい。これ程体系的にまとめらた音楽文化はペルシャ音楽とインド音楽を除いてはそうはないであろう、声の可能性のある側面を極限まで追究したという意味においても音声芸術の一つの究極であるとも思う(トルコ、インド、ペルシャ、チベットもそれぞれに音声表現の究極を創造した)しかし西洋クラッシックこそが唯一の音楽だと思い込んできた日本の音楽教育の在り方は明らかに間違っている。はっきり言って頭が悪いとしか言いようがない!!!個人が思い込むのは自由であるがそれを教育という形で人に薦めるのは犯罪である!!日本の音楽教育はそういう意味で犯罪を犯し続けてきたように思えてならない。

だがこの根は深くそう簡単に変わるものではない事も承知である。少しづつでも良い世界の様々な音楽文化や音声文化に耳を傾けて開けた耳を育てていってもらいたいと思う。せっかくこの世界に生を受けたのである360度の全包囲的に音楽文化を楽しんだ方がお得である。もしあなたが18度位の音楽文化しか知らないのであれば今からでも世界中の音楽文化に耳を傾けてみると良いと思う。以外と食わず嫌いだった事に気付かされるのではないだろうか?              コダーイシステムは開けた耳を創造するシステムでありそこから自在な音声表現、音楽表現を目指すものであり私の音(おん)教育システムも多大な影響を受けている。コダーイはウアソングと呼ばれる源初の歌を発掘しそれを教育の中にとりいれた。我が国の北海道のアイヌ民族の歌である。その何者にも汚されていない源初の歌はコダーイの創造性にも多くの影響を与えたようである。私達の身の周りにも源初の歌が思わぬ所にあるものである・・・「かくれんぼするものこの指とまれは〜やくしないと電気のたまがき〜れる指きった!」「誰かに誰かにこれあげる!」「入〜れ〜て」「い〜い〜よ」子供達の何気ない日常の遊びの中での歌である・・これらはなんとも味わい深いメロディと自然で明るい豊かな声が聴こえるものである。こういった子供が自然に身に付けた歌は今も良く耳を済ませば子供達の中に息づいている・・・しかし昔に比べるとやはり減ってきているようである・・・子供達の自然な声と音感を失わないように豊かな歌の花を咲かせられる教育が近い将来日本にも生まれる事を祈ってこの章を終わりとします。もちろん私も最善を尽したいと思います。

 ※ソルフェージュについていわゆる一般的な西洋音楽におけるソルフェージュをいきなり子供達に教えるのは先程もいったように子供達が元来もっている自然な音感を失わせる事に繋がるおそれがある。それは現代の音楽授業の崩壊の状態をみれば明らかである。全部が全部そうではないが圧倒的多数がそういった崩壊状態にある。そのためコダーイシステムで説かれているように自国のわらべ歌と遊びの中から自然な音感を育みそこから徐々に他国の音楽や西洋クラッシックへと接点を持たせ繋げていく授業が望ましい。西洋クラッシックの短所ばかりを挙げたが西洋クラッシックで歌われるドレミファソラシドの階名唱法は喉頭の筋肉を発達させる上で非常に良い影響を与える事がわかっている。これは西洋声楽とその発声訓練法の黄金時代とされる17世紀〜18世紀のイタリアで大変に重要視された訓練であり、特に母音を純化するのに役立ったものと思われる。ドレミファソラシドは母音、子音共に不連続に配置されておりウを除く全ての母音が良い具合に配置されている。ただしもともとドはウトという階名で読んでいたわけなので旧階名のウトを取り入れるならば全ての母音が揃う事となるのである。また子音もd(閉鎖音)r(顫音・せんおん)m(鼻音)f(唇と歯の摩擦音)s(舌と歯茎の摩擦音)l(側音)とイタリア語における音声学上の分類の殆んどが取り入れられているのである。そして階名の開始音にあたるドの子音dはg、bとともに声帯の閉鎖を促進させてくれる効果があり、母音oはアとウの中間的な母音であり喉頭を下方に懸垂する効果とア的な閉鎖の効果の両方がバランスよく期待できる。ソ(イタリアではsolと表記する。よってソルと発音するのが近い。)でも同様に閉鎖と引き下げによる伸展がバランスよく期待出来る。ウトでのウの母音になると喉頭を下方に引く筋肉の強化が一層期待できる。レでは巻き舌的な効果によりいわゆるタングトリル的な効果の要素が僅かに得られる。それにより喉頭懸垂機構のリラックスと声帯振動パターンのショートニングの機能の誘発が期待できる同じくラやファでもプレイシングザボイスの3bを活発にさせる効果が期待できるためショートニングの効果を補助する要素が確立される。ミやシ(性格に言うならスィの方が近い)おいては声帯を閉鎖し声に輝きを与える効果が期待できる。このようにソルフェージュによる発声訓練は声の生理を健全な状態に調えるために役立つ様々な効果が期待出来るのである。ソルフェージュは単なる音程訓練や耳を鍛える以外にも声の生理を目覚めさせるためにも非常に良い効果が期待出来るスーパー訓練なのである。17世紀〜18世紀のイタリアがベルカント黄金時代を創った一つの要素にソルフェージュを発声訓練に応用していたという事にあった分けは上記の説明である程度納得出来ると思う。またいわゆる音大の声楽学生が初期の段階で習うイタリア古典歌曲も17世紀前後のものであるが(いわゆるバロック期のオペラアリアや歌曲が多く一部ルネッサンス期のものもあるカロミオベンやアマリッリ等が有名であるが現代の音大で歌われているものや皆さんがコンサートで聴くものはロマン派期のパリゾッティがアレンジ編集したものであり、唱法等もロマン派のそれに近い、近年発売されたペートン版は発声学会でも発表されたがバロック唱法に近く声の生理のためにはこちらの方が良いと思う。)これらの歌曲もソルフェージュと同じように発声の初的段階において基本的生理機能を発達させ目覚めさせる効果を内在している事を付け加えてこの章を終わりする。